朝顔は,奈良時代(708〜781)下剤として遣唐使により他の薬と共に中国から朝鮮を経て牽午子〈ケンゴシ〉の名で種として渡来した。その後和名で阿佐加保になった。
原産地は熱帯地方で相当以前より中国にあった様です。奈良時代現在の奈良県畝傍地方の薬草園で栽培されたと推測される。
高松塚古墳の西北に牽午子塚古墳があります。
薬であったため花は鑑賞することは少なかった平安時代(782〜1182)には薬として用いられた記録がありましたが、その後時代と共に花の色〈原色は淡青色〉変り咲き等之発達をつづけ第一流行期として文化,文政(1804〜1829)に色々の朝顔が一般に普及した。
徳川の初期(1603〜1700)には水田の蛙道に栽培されて居たとありその後時代の悪化により一時期園芸そのものが衰えましたが、嘉永・安政(1841〜1859)に第二流行期に入り各地で品評会が開かれ、奇種、珍種の逸品が現れた。
中でも下谷坂本村字入谷に住んで居た植木師山崎留次郎さんが活躍して色色のアイデアで朝顔作りを広め、大阪の朝顔師と共に大いに普及宣伝した。
その後、明治時代〈1868〜1902〉に入り維新で衰えましたが大阪の被害が少なかったので大阪を始め束京を中心に各地で朝顔の会が出現した。
仙台,名古屋,長崎,新潟にも出来た(1888〜1902)これが第三流行期になった。
入谷が朝顔で有名になったのは,明治になってからのことで,土質が朝顔造りに適してい
たのか、十数件の植木屋が,一軒五六百坪の土地を有し,軒を連ねて朝顔造りを始めたの であります。
その頃の主な植木屋には,丸新・入又・入十、植松・入久・松本、入長・高野植惣・新亀等があリまして、年々大輪朝顔の外、変り種を作り,珍花を咲せ,それを陳列したのが評判になり早晩より見物人が群集し、束都年中行事の一つに数えられるようになったのであります。
当時の模様を下谷繁昌記〈大正三年明治教育社発行〉によって観ますと「入谷の朝顔の全盛を極めたりしは,明治二十四五年頃にして,其の頃は,朝顔を造る植木屋十数軒を数え、入谷の通りは、毎朝,往来止めとなる程なりし也。殊に,当時は,周囲一面の蓮田を廻らしたれば、涼しき朝風に吹かれ乍ら、朝顔を見又蓮の花を見るを得たりしかば、観客頻る多く,非常の盛況を呈したり。」と記載されております。
これ程有名であった入谷の朝顔も,入谷が発展するに伴い,地価と作品のバランスを失い 廃業する植木屋が次々に現れ,遂に大正二年意地づくで踏留っておった植松の廃業を最後に、束京名物入谷の朝顔もその姿を消してしまったのであります。
尚,植松さんの子孫が 現在も花関係で入谷にて盛業中であります。 それから三十五年経った,昭和二十三年,下谷観光連盟並びに地元有志の方々の努力はもとより,台東区の後援を得て,入谷に再び朝顔の市が立つようになって,早晩より深夜に至るまでの終日,往時を凌ぐ盛況を極めていることは又宜なるかなということが出きるのであります。
配布パンフレットより |