上野恩賜公園(上野公園)は、三代将軍徳川家光の命により天海僧正によって寛永二年(1625年)建立され子院三十六防、本坊、根本中堂、文殊楼(吉祥閣)により構成された寛永寺の境内跡である。
その後、慶応四年五月十五日 戊申戦争で官軍大村益二郎の指揮のもとの上野寛永寺に立てこもる彰義隊を総攻撃し夕刻敗退させた、のちに『上野戦争』と称される。
その主戦場である寛永寺は官軍により焼失し、明治維新以降上野の山一帯は焼け野原となり放置された。
その後、陸軍用地、病院建設予定地となったが、御雇い外国人医師であるオランダ人ポートワン博士が現地を見聞し景観の良さに公園にするよう明治政府に進言した。
そして明治六年に日本の公園第1号として一般に公開に至ったといわれているが、文献を調べてみると以下のような実態があった。
寛永寺跡地は、明治元年12月東京府に管理を移管、翌2年春に市民に開放された。
その後、明治3年3月民部省による伐採依頼があるも、東京府は拒否、上野山地区に大学東校用地として指定されてつつあった為、同年僧侶により嘆願書が提出するも却下された。
明治3年5月竹の台に大学東校用地決定5月27日基本引き渡しに寛永寺側と合意 同7年大学病院基礎工事始まる。
ボードワン、現地を公園にすべきとオランダ公使を通じて大政官にたいして意見書提出するとともに、オーストリアより帰国した佐野常未民が英公使パークスに斡旋を依頼するもならず、財政逼迫のため、公園と指定されることはなかった。
しかし山県有朋が私費250石を拠出し上野山を買い取り官に収め他への転用を阻止した。
明治5年 学制発布後、再び陸軍用地の本坊後を含めて上野全地区を大学東校を上野に建設しようとするも、東京府は僧侶も居住しているとの理由で反対、妥協案として上野山の一部に用地を確保することで具体的な話し合いを行った。
これが現在の東京大学始まりである。
当時の上野山の状況は、本坊跡(現国立博物館):陸軍省用地2万坪を兵学寮用地として要求中、竹の台〜桜ヶ岡約13万坪は文部省用地、その外は徳川霊廟と谷中周辺は寛永寺と別院の所有地であった。
明治6年1月15日大政官布達”正院達第拾六号”を発布 同年1月26日東京府知事大久保一翁名で上野公園一帯を公園用地として要求
同年3月25日大蔵省に対し金竜山浅草寺、東比叡山寛永寺、三縁山増山寺、富岡八幡社および飛鳥山の五箇について公園設置を願い出た。
同年5月24日付けで東京府公園開設に着手 同年10月19日大政官より「その府の申請は、内容を検討するに粗雑であるから、すでに実地につき築造方法、所要経費および財源見込等を精査の上再度提出せよ」と回答
なお、同日上野公園は開園した。
これは各省との利権によりの妥協的産物として現在の上野公園は生まれたといえる。
明治7年3月袴腰上の黒門、新黒門を開放し上野山下通りと連絡した。
同年7月不忍池周辺5万5千坪が公園に編入 同年10月公園内に散在する寛永寺子院を谷中の代替え地に移転を命じた。
明治9年1月所管が内務省博物局にうつり園内の掛茶屋を撤去し改修整備をおこなった。
同年5月8日明治天皇の行幸を賜り開業式が執り行なわれた。
明治10年8月21日〜11月31日に「第一回内国勧業博覧会」を開催。
明治15年帝室御用地に指定宮内庁管轄となる その後、上野公園の整備に当たっては、一木一石を動かす場合にも宮内庁の許可が必要となり公園整備が思うに任せず、公園が荒廃した。
これを見かねた下谷地区雄志が区民三千名の書名を添えて宮内庁に陳情するに至った。
大正十三年を昭和天皇の婚儀の慶事記念として東京府に払い下げられた、これが恩賜公園云われはといわれる。